「私の東混放浪記 」II

ブログの日

バス

德永祐一

旅行にまつわるエトセトラ

Part I

東混2年目が終わろうとする頃にアメリカ公演が予定されていた。
出発は2月。
11日間で8都市を巡るタイトな旅程でホテルはみな相部屋になる。
そこで私は1月迄に結婚式を済ませようと慌てて準備をした。
先輩方には電撃結婚だとか騒がれた。
当然だが準備期間が無い。
そのうえ東混のスケジュールは既に埋まっていた。
確保できたのは1月下旬、2週にわたって町田市民ホールで開催される鑑賞会の合間に休日として与えられていた日曜日だけだった。
土曜日午前中までステージに立って日曜日に挙式披露宴。
慶弔休暇も取らず(前後両日共どうせ仕事)強行しちゃった。

挙式では定番の讃美歌第312番
「いつくしみ深き」がうたわれた。
その冒頭 “いー”つくしみの瞬間
後頭部に強い衝撃を受けた。
私は思わず振り返ってしまう。
2週間で唯一の休日を返上して参列してくれた先輩方は実に誇らしげにうたい、笑顔で目を合わせてくれた。
おそらくは日本で一番荘厳な讃美歌が教会の屋根を吹っ飛ばさんばかりの勢いで鳴り響き渡っていた。(トミーとゆみちゃん挙式の比じゃないよ:ドヤ顔)
参列者から盛大に祝福され、その日限りは世界の中心にいるようだった。
夢見心地のままあっという間に一日が過ぎ、翌朝には再び町田市民ホールのステージに立っていた。

ドタバタと式を挙げ2月に入り、私は晴れて新婚さんとしてアメリカへ旅立った。
東混はASEAN諸国に続き2度目の海外公演。
団員の半分近くは海外が初めてで高揚感に満ちていた。
私もご多分に漏れず気分は新婚旅行(そのために結婚したと言ってもいい確信犯)
もちろん移動も宿泊も2人一緒。
ただ、現地ではどこへ行くときもバスの先輩が金魚のフンみたいにくっついて来た。何故だ、、、
一緒に食事へ出かけ先輩の分も注文してたら「明日どこいくのぉ〜」と聞いてくる。
きっと異国の地で1人ぼっちになるのが不安だったのかもしれない。
と思ってあげることにした。(友達いないんかいっ!?  多分いない、、、笑)
こちらはそんなのお構いなしに時間の許される限りあちこち飛び回った。

ボストンでは本物の岩かと見間違うほどのじゃがいも🥔付きのロブスター🦞
L.L.Beanの本拠地ポートランドでのアウトドアグッズ🥾ショッピング
ニューヨークエンパイア・ステイト・ビルディングから摩天楼🌃の眺め
セントルイスのシンボル ゲートウェイアーチ🏞
ナッシュビル💿のジャックダニエル蒸留所🥃
etc.
ま、一緒にいて嫌じゃなかったし自分の行きたいところにも行けたので問題なし、か?

一方、男性先輩達の機嫌は日に日に悪くなっていった。
時差ボケが激しいのは皆同じ。
先ず考えられる原因の一つは食べ物だろう。
放っておけば毎日お寿司を食べてるような人が大雑把な食べ物にすぐ慣れる訳がない。
バス移動の際には車内食が配られた。
その内容というと、七面鳥のサンドイッチにフレンチフライ、リンゴ丸ごと1個とコカ・コーラの連続だった。
確かにこれはキツかった。
もう一つの要因、それはエイズの影。
当時アメリカにもHIVが広まっていた。
出発前から話題になっていたものの、控室ではトイレに行くのも心配だとか話していたっけ。
いつものコワ〜いおじさん達の影も形も無かった
HIVに対するしっかりした知識を今ほど持ち合わせていなかった。

それよりも、もっともっと大きな問題があった。
喫煙場所がなかったのだ。
今では考えられないが男性の半数近くが喫煙者だった。
日本も今でこそやっとと言えるが、30年以上前のアメリカは既に禁煙・分煙がはるかに進んでいた。
とにかくタバコを吸えるタイミングと場所がない。
日に日に喫煙者が苛立ってくるのがわかった。
言葉数が減り、目が三角になってくる。
お互いなす術がない。
ただ、いつも煙を撒き散らされている側のメンバーはアメリカ生活を実に満喫していた。

ホテルは基本ツインベッドの相部屋だったが1回だけ、部屋によってはダブルベッド(映画に出てくるモーテルのような)の日があった。
びよんびよんのスプリングコイルマットレスに2人で寝るハメになったある先輩。
とても体格がよく、どう寝っころがろうとも大きく沈み込んじゃう。
相方の痩せっぽっちの先輩は凹んだ方へ転がり寄せられぴったりくっついちゃう。
そうして2人は寝るに寝られぬ悶々とした一夜を共に過ごした。
翌日はその話で持ちきり。
その様子をみんなに披露しては大爆笑。
当の本人も満更でもなさそう。
モーテルのダブルベッドのお陰で少しだけみんなの気分が晴れて明るくなった。

テノールの先輩はベッドから立ち上がろうと足をついた途端、足首骨折!
思い出のアメリカ土産が松葉杖になった。
鍵がどうやっても開けられなくなったスーツケースが出た。
みんなで寄ってたかって試行錯誤。
そんな中、突如スーツケースの上で飛び跳ね奇妙なお祈りを始める人がいた。
周りのみんなは鍵の事など忘れ唖然とし、スーツケースの持ち主は後退りしていた。

兎に角、旅に出るとこうした想像を超える出来事が何故かよく起こってしまう。
海外は他にカナダ、スウェーデン、フィンランド(2回)、エストニア(2回) 、ラトヴィア、ベルギー、ウィーン、フランス、モナコ、中国へ行った。
その土地ごとにハプニングは尽きず、語り草は増え、思い出つくりには事欠かない。

行け 旅に 今こそ!(旅:佐藤眞)
楽しいはずの旅行だが、皆様呉々もアクシデントには御用心ご用心

ベルギーで仲良くなったキューバ🇨🇺のグループEXAUDIの皆さんと。
とてもピュアで勤勉な人達。
特に私の左側に立つMaria Victoriaとは送迎バスの中でたくさんお話をした。

Part II

国内に目を向けると入団後3年で全国47都道府県を訪れていた。
最初は見知らぬ土地だったところも訪れる度に愛着が湧いてくる。
一度きりの場所も数えきれないが人との触れ合いはどこも温かかった。
宿泊では青森ねぶた祭、京都祇園祭、博多祇園山笠や何とか学会等とかと重なり宿を取るのに苦労したこともあった。
ご当地の食べ物にも詳しくなる。
先輩に連れられて名物を知り、情報交換して美味しいお店がどんどん増えてくる。
そしてまた後輩と一緒に行ったりと。
団員の持っている情報をまとめれば立派なグルメ本が一冊出来上がるに違いない。

これまでに訪れた最北の地は利尻島。
最南は南大東か?波照間か?東は根室、西は与那国。
ついに北方四島の地を踏むことは無かった。

与那国島

忘れ得ぬ光景がある。
沖永良部島(何と中高の同級生が教師として赴任中だった!)でのこと。
ホテルの屋上で仰向けに寝転がり眺めた夜空。
数えきれない流れ星と溢れ落ちてきそうな満天の星。
肉眼で見たアンドロメダの雲は美しく目に焼き付いている。

長崎県内の中学高等学校を3年掛けて巡回する事業があった。
それを3回行った。
足掛け9年で廻った島々は、壱岐、対馬、西海の大島に平戸と生月は橋が架かる前だった。
そして何と言っても五島列島(福江、久賀、奈留、若松、中通、小値賀、宇久)だ。
これらに長崎市、佐世保市、島原市他県内を余すところなく廻った。
島の数が最も多い長崎県なので移動にはどうしても船の利用が多くなる。
大揺れのフェリーで4時間半耐え抜いたり、長崎空港から大村湾をクルージングしたり。
漁船をチャーターして40ノット(時速70kmオーバー)で海にふっ飛ばされそうになったりと、とにかく船には鍛えられた。
五島列島では訪れる島々で手厚い歓迎を受けた。
公演を終えると島内の見所(後に潜伏キリシタン関連の世界遺産に指定された教会や墓地集落など)に連れて行ってもらい、船に乗ってお別れする際には芋焼酎の一升瓶など持たせてくれる。
宿に着くと早速大宴会。
お酒に強い人はここぞとばかり酌み交わす。
翌日のステージのこともあり(多分)一晩(ピアニスト、メンバー、事務局員、県の担当者の11人で酒豪は2,3人、下戸は5,6人)で一升瓶は空かず、仕方なくこっそり小脇に抱えて次の学校へ持ち込む。
すると如何にもお酒が好きそうな先生が目ざとく見つけ話しかけてくる。
「昨夜は楽しまれたとですか?」
「そりゃそりゃ(笑顔)」
生徒たちとの楽しい時間を過ごし、校長先生やお世話になった先生方にご挨拶して学校を後にしようとすると、校長先生が「今夜の宿で」と言うと同時にさっきの先生がビールケースを抱えてガシャン!と我々の目の前に。
その時の移動が確か70ノットのチャーター漁船。
ビールケースを振り落とされまいと必死に押さえつけていた現事務局長の姿が忘れられない。
その日も当然一晩で飲みきることが出来ず仕舞い。
流石に翌日の学校へビールケースを抱えては行けない。
宿(小さな島にホテルはなく大体は旅館)に残りのお酒を差し上げて、
という事が続いた。
県の担当者とどうやら我々が訪れる先に情報を手に入れ、前の島、前の学校のもてなしに負けないようにしてるんじゃないか?という話になった。
これはあくまでも推測。
もしかすると県の担当者が伝えていたのかもしれない。
何れにせよ真実は定かでない。
今時こんな接待をしたり受けていたら即刻事業停止、予算ゼロだろう。
良かれ悪しかれ、まぁそういう大らかな時代に生きていた。
そして今よりたくさんの子供たちへ私たちの歌声を届けられたことは確かだ。

長崎ゾリステン
3mの波を真正面から受け船首甲板でずぶ濡れになる、の図
この後立ってられないほどの揺れに客室に直ぐ戻るよう船員さんに怒られる

この2年間というものステージに上がる回数が激減したのは勿論、旅にすら出られなかった。
演奏経験だけでなく旅したことも随分と私を育んでくれたのだと今改めて気付かされる。
そんな私の生年月日ならぬ生まれた曜日は木曜日。
Thursday’s child has far to go.
たびにでるのは もくようびのこども (マザー・グースのうた:谷川俊太郎)
なのだ。
人生の旅はまだまだ続く。
まだ見ぬ未来にもきっとこれまでにない出来事や失敗が積み重っていくのだろう。

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