バス
德永祐一
東混指揮者遍歴
現在東混の指揮者陣は9人。
契約団員は26人。
何と贅沢な。
入団当時はこのような顔ぶれ。
音楽監督 岩城宏之
常任指揮者 田中信昭
指揮者 宮本昭嘉
指揮者 八尋和美
副指揮者 遠藤猛
団員は45名程いたと思う。
八尋さんは一期生。
容姿端麗スタイル抜群。
女声団員に絶大なる人気を得ていた。
創立当時から東京メールカルテットという男声四重唱グループを組んで、こちらもモテにもてていたそうだ。
東混の良心、今もイタズラ好きのジェントルマン。
遠藤さんは現役団員を兼ねていた。
団内にはもう一人円藤さんという方がいて、こちらはマルエン(円)さん、それに対し遠藤さんはずいぶん先に入団していたのでみんなはフル(古)エンさんと呼んでいた。
フルエンさんの声量は半端なく豊かだった。
時々お隣でうたったがステージが終わると耳鳴りがするほどだった(°_°)
なぜか横を向いてうたうというクセが強かった。
よく痰を絡ませるので陰で “タンホイザー” と呼んでいた。それを耳にしたフルエンさん、自分で勝手にワーグナー歌いと思い込みご満悦。
黛敏郎さんの「日本賛歌」( 3菅編成のオラトリオ)でアカペラ・バリトン・ソロを担当した時、何を間違えたか3度くらい上の音からうたい始めちゃった。
最高音Gisくらいになっても平気な顔で気持ち良さそにうたい切ってしまった。
さすがワーグナー歌い。
演奏後メンバー全員にからかわれ、その後は武勇伝として語り継がれている。
岩城さんは”さん”付けで呼ばないとすぐに直された。
マエストロと呼ぶならまだしも岩城センセイなどと呼ぼうものなら即座に
センセイはやめて、と。
そう言われても入団したてのひよっこには相当勇気が必要だった。
大勢で同席している場合、他の人に対してマエストロは、とか言っても本人に話しかけるときは常に岩城”さん” だった。(岩城さん以外にマエストロと呼んだ人もいないケド)
音楽監督がそうなんだからと生意気に常任指揮者にも”さん”付け(さっきの勇気は何処へやら)で呼んだ。
周りの先輩方が田中センセイと呼んでいても田中さんで通した。
ただ、宮本先生だけはずーっと先生だった。
他の指揮者は同業意識もあり”さん”付けで呼べたのだが、宮本先生は学者肌で様々な分野に通じ、その博学ぶりは所謂 “知の巨人” (体も大きかったので名実共に)といったところ。
私にとって指揮する先生だった。
宮本先生には専用の机があり (常任や音楽監督すら机無し) 海外から取り寄せた楽譜に逐語訳をつけたり分析メモを書き加えた複写を自分で製本、装丁している姿をよく見かけた。
お昼になると自前の大きな鍋でスパゲティを茹でていたが、その食べっぷりがまたお見事だった。
先生が3回、頭を下げたらお皿の上のスパゲティはきれいさっぱり無くなっていた。
これホント。
当時の練習場は須賀町 (総武線信濃町下車) にあった。
(創立当時は台東区桜木町、そこから信濃町〜須賀町へ。一方事務局は初代理事長宅があった中野区の氷川町〜銀座の河合楽器東京支店の2F〜須賀町へと推移)
宮本先生は時間ができると千駄ヶ谷駅前にあった東京体育館の室内プール (私も時々練習帰りに利用した。1回400円だったかな?) でひと泳ぎしていた。
それを最初に知ったのは先生の机の上でハンガーにぶら下がってゆらゆら揺れてるバカでかい海水パンツを見た時だった。
泳ぐことが大好きで旅先でも時間があればメンバーを引き連れて海水浴に行った。
仕事で来ているのに泳ぎに行くなんて、と叱る先輩もいた。それでもこっちにゃ宮本先生がいるんだいと全く意に介さず (若いってスバラシイのかアホなのか)
泳ぎに行くと余計にわかる宮本先生の体格の良さ。
合唱団の前で指揮する姿も迫力が半端なく、鑑賞教室などで間近に見る小学生からすると大怪獣のように見えたかもしれない。
追分節考を指揮するときは必ず指を三本立てたまま大腕振って登場。
さっさとお辞儀をして振り向きざまにその腕を上げると追分節考が始まる。
3の合図で女声が E, Fis, A, H の音を出す。
もちろん他の指揮者は1 ( Cis, Fis, A ) や2 ( E, Fis, A, H ) の合図から始めたり、男声への合図から始めていた。決まりはないのだ。
それでも宮本先生は決まって3本指だった。
須賀町にあった事務所と練習場は貸しビルの4階 (最上階) だった。
エレベーターは無い(ティンパニーやマリンバを担いで搬入の手伝いしたっけ)
築年数もかなりなもの。年末の大掃除はメンバー総出で行い、床の剥がれかけたPタイル(正方形の薄いタイル)を張り替える。信濃町駅前にある慶應病院に菓子折りを持って行きタイルを分けてもらい男性陣で張り替えるのが恒例行事となっていた。
割れたタイルを取っ払い、残った接着剤をヘラでカリカリ剥がし取る。
コンクリートの表面がキレイになると新しい接着剤を塗ってタイルを貼る。
毎年何十枚と張り替えた。
タイルがキレイになり掃除が済むと次は忘年会。
その年に委嘱した作曲家達、湯浅さん武満さんから池辺さんまで一堂に会してワイワイ。
新入団員の出し物で大笑いしながらみんなで持ち寄った料理に舌鼓を打つ。
バーカウンターを設けてサントリー提供のビールやウイスキーを空けていく。
みんなの笑いと涙、接着剤とアルコールが染み込んだ練習場。
ここから本当に沢山の曲が産声を上げた。
ビルの1F〜3Fは会計や簿記とかの専門学校だった。
ある時、その学校が東混のフロアも教室にしたいということで “貸す貸さない” という話から “出る出ない” ついには裁判にまで拗れてしまった。
裁判中の経緯は詳しく伝わってこなかったが、判決は東混の負け。長年借りていたビルから出ていくことになってしまった。
争点は芸術文化と教育の重要性だった。
両天秤にかけたら教育の方が少しだけ重かったということらしい。
まぁこのクニの予算を見れば一目瞭然。いまだに文化行政の予算なんてスズメの涙😢またその殆どが文化財に溶けていく。
裁判に負け、それなりのモノを戴き、次は新しい練習場所を探さないといけない。
と言ったタイミングで、事務所兼倉庫として使用していた物件有りとの情報。
かつて団員だったメンバーの実家が持ち主だった。これ幸い渡りに船で早々と引っ越し完了。追い出されたビルより広々とした練習場に移ることになった。
まだ「東昆」(株)東京昆布の看板が残ってるところに東混が入った。
よくできた話。
元々は倉庫なのでプレハブに毛が生えたようなもの(失礼)だったが、それでも練習は1Fで事務所は2F
団員一人一人にちょっとしたロッカーはあるわ、楽器運搬車も何台も止められるわ、ライブラリーの書庫も十分なスペースを確保できた。
ただ遠かった。
町屋から都電でトコトコ通わないといけない。
練習場が移ってからはリハーサルの開始時間が15分遅くなった。
事務所とフロアが分かれたことで宮本先生の日々の仕事を見る機会は減ってしまった。
数年後、長らく透析治療を受けていた先生は合併症によりお亡くなりになった。
告別式は練習場で行い、みんなで先生を見送った。
残された楽譜は膨大な数になっていた。
その後、東混の東昆練習場は売却されることになりまた引っ越し。
先のブログに登場した指揮者のAlldisさんとここでリハーサルをした記憶があるので1995年頃か。
バブル崩壊の影響が大きく、事務所は新宿区に何とか構えたものの練習場はその都度渡り歩くことになる。
まさに東混放浪期が始まった。
練習場所はどうにかなるが東混のライブラリーと宮本先生の蔵書が問題だった。
ライブラリー用に借りられるスペースに限界があり、引っ越しの際に楽譜の整理、選別が行われた。
人数分取り揃えた同じ楽譜は各自持ち帰るなどしたが、どうしても保管出来ない楽譜が大量に出た。
メンバーが欲しい楽譜は持ち帰ったり寄付するなど廃棄を最小限に留めた。
そこで驚いたのはやはり宮本先生の楽譜の数と種類だった。Graduale Triprex や フェアファックスの写本資料から、合唱曲以外にもオペラやオケのフルスコア(春の祭典とか)までもが残されていた。
私はこれらを譲り受けた。その中にもう一冊 Verdi:Requiem のスコアがあった。
リコルディ版の複写譜面にラテン語の逐語訳と格変化や類語など細かいメモがたくさん記入されている。
計り知れぬ努力の後を目の当たりにし、改めて宮本先生に尊敬の念を抱いた。
在団中は岩城さんから田中さん、そして現在(理事長兼任)の山田和樹(ヤマカズ)さんが音楽監督に就いている。
入団時から岩城さんはずっと音楽監督だった。
初めて声をかけられたのはリハーサル中のこと。
曲を止め
「君ねェ espressivo の時、貧乏ゆすり」
全く無意識だった。
先輩方は笑っていたが私は恥ずかしさで返事も出来ず、顔から火の出る思いでうつむくしかなかった。
それ以降 espressivo貧乏ゆすりはピタリと止まった(ハズ)
岩城さんが何に対してもズバッと物言う人だというのはこの後よーく理解できた。
思いもよらないことを言い出したり、忖度のない言動には数え切れないほどハラハラさせられたが、ただの一度も間違ったことは言わなかった。
阪神淡路大震災後の演奏会では事務方にバケツ用意してと言い、休憩に入ると自らバケツを持って客席へ降りて行き募金をかき集めた。
終演後お客様の帰り際、出口に立って箱を抱えて募金してもらう感覚なんてまるっきり無い。
岩城宏之の名前で募金をブン取ってくるような強引さと行動力だった。
あっという間に用意した2つのバケツには溢れんばかりの募金が集まった。
岩城さんは感謝の言葉を伝え会場からは大きな拍手が湧き上がった。
ある時、G.ガブリエリの宗教曲を演奏しようとスタンバイしているとき
突然私に「なんで桜なの?」と聞いてきた。
一瞬耳を疑った。
Symphoniae Sacrae / シンフォニア・サクラ(神聖な)のことだった。
岩城さん、桜じゃ無いよ〜 Sacrae だよ〜、と心の中で突っ込み、そこにいた周りのメンバーみんなが寄ってたかって丁寧に教えてあげた。
演奏前にそんなこと知らんのかい!と呆れつつ、知らないことを素直に聞いてくる岩城さんがカワイく思えた。
私がコンマスになる前は山田茂 (ヤマシゲ) さんが長い間務めていた。必然的に岩城さんとのお付き合いも長かった。
コンマスは全体練習の後もパートから質問や提案を受けたり、指揮者に確認してフィードバックしたり、双方の意思を伝達して共有できるようにする役目がある。
岩城さんは休憩に入ると真っ直ぐ自分に近づいてくるヤマシゲさんがコワいと私に漏らした。
ヤマシゲさんが視界に入るとドキドキするらしい(笑)
岩城さんならではの感覚か、ヤマシゲさんが本当にコワかったのか、おそらく前者だろうがその気持ち、何となくわからなくもない。
それを聞いてから、ヤマシゲさんが岩城さんの所へ向かう度 “あっ捕まった” と遠巻きにニヤニヤしながら眺めていた。
せっかくの休憩に入っても細々と対応しないといけないのだから本当に気の毒だ。
岩城さんにとってヤマシゲさんはほんの少しだけ扱いにくい存在だったのかもしれない。
そんな気持ちをちょろっと漏らすなんてこれまたカワイイところ。
立場が変わり、私もよく指揮者のところへ行った。
私に捕まった指揮者のみなさん、ゴメンナサイね。
1993年に行われた伊勢神宮式年遷宮に岩城さんは民間代表の「奉仕者」として儀式に参加した。
禊を済ませ装束に身を纏いetc.
その時の様子をたくさん聞かされた。
いろんなところで話してるんだろうなーと思いながら相槌を打つ。
金沢に創立したOEK (オーケストラ・アンサンブル・金沢) も「20年に一度解体しちゃおうかな」とか言い出す。まるで小学校のガキ大将のように見えた。
その年の暮れ、定期で Kagel の Rrrrrrr… だったかを指揮した。
「みんな好きな服着て。僕、式年遷宮の装束着るから」ときた。
普段着の団員が殆どだったが、それを聞いた私は、ならばと地元愛媛県西条市で行われる秋祭りの格好をしようと決めていた。
ラクダの肌襦袢にネルの腰巻、へこ帯巻いてハッピを羽織ってステージに立った。
私を見て一瞬、目が点になった岩城さんの顔が忘れられない(笑)
ご自宅に伺って、奥さんの木村かをりさんとの海外珍道中やケージの話、頸椎後縦靭帯骨化症術後の執筆方法ナドナド、抱腹絶倒の本になる前ネタをたくさん聞かせてくれた。
私もいつまでも聴き続けたかった。
岩城さん生涯最後のステージは2006年5月24日紀尾井ホール
「東混創立50周年」記念コンサート
その1ヶ月前の定期には武満さんだけのプログラムを組んだ。
林光さんをゲストに、没後10年になる武満さんの思い出を二人で楽しくお話ししていた。
記念コンサートで岩城さんが選んだ曲に「戦友」(男声合唱) 作詞:真下飛泉作詞 作曲:三善和気 があった。
(他は女声合唱で、ねむの花、夏の思い出、雪の降る街を、の3曲。混声合唱曲はうたわなかった)
「戦友」
ここは御国を何百里、とうたいだすアレだ。
軍歌に分類されたりするものの、今では厭戦の歌、或いは鎮魂歌として認識されている。
ストリングシンセサイザーとチューバ、ティンパニが加わる。
チューバとティンパニには元N響首席の多戸幾久三さんと百瀬和紀さんを岩城さんが直々に呼び寄せた。
編曲はそれこそ戦友といえる林光。
これだけでも並々ならぬ強靭な意思が伝わってくる。「戦友」のタイトルでレコードが発売(確か1965年)されていた。
おそらくそれ以来の演奏ではなかっただろうか。
この曲についてはたくさんの物語があるのでここでは書かないが、とにかく岩城さんはこの曲を選んだ。
指揮台にスロープを設置し車椅子で登場。
14番まである歌詞を全て歌った。
岩城さんはリハーサル時から普通に声を出すのもままならぬ状態だった。
我々との間にもう言葉は必要なかった。
岩城さんの両腕、指一本いっぽんの動き、眼光が我々を動かした。
演奏会を終え再度入院した岩城さんから留守電が入るようになった。
ある日「来て」と連絡があり連れと2人して伺った。
病室にはベッドの両脇に木村かをりさんと娘さんが腰掛けていた。
ご挨拶をすませ岩城さんに目をやると、温かい日差しの中で気持ちよさそうに微睡んでいた。
窓際にはエッセイに度々登場する「観音さま」も横たわっていた。
初めて実物を見た。
幼い岩城少年が夢の中でお告げを受け、足の切断から救ってくれたという観音さま。
東京大空襲で一面焼け野原になった家の跡地から掘り起こして金沢まで持っていった観音さま。
普段は信仰心を持ち合わせていないという岩城さんも、この観音さまだけは何かしら気持ちが働いていたのだろう。
目を覚ました岩城さんにこちらから(これまでは一方的に聞き手にまわっていたが)いろいろ話しかけ、その都度あの細い目で笑みを返してくれた。
束の間の面会を終え、窓際の観音さまに “お願いします” と目をやり病室を後にした。
6月12日、東混の志村夫妻と日光旅行へ出かけていた。
その夜はW杯ドイツ大会のグループリーグ初戦。
日本代表は先制点を挙げるも後半に入り屈辱的逆転劇で苦杯を喫した。
かなり凹んだが旅行を楽しもうと自分に言い聞かせた矢先、岩城さんの訃報が届く。
弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂どころの話じゃない。
「君ねェ」の時から岩城さんには薫陶どころの話じゃない程たくさんのものを受け取っていた。
その日予定していた鬼怒川ライン下りは水飛沫と涙でびしょ濡れになった。
田中信昭さん
音楽監督になる前は桂冠指揮者の称号を与えられていた。
その後新たに音楽監督のポストに就いたが、田中さんの功績は何と言っても長きに渡る常任指揮者としての期間にあると思う。
東混創立メンバー
常に私の30年先を突き進み、追いつくことなど到底不可能な存在。
私が退いた後も30年は突っ走っているに違いない。
田中さんの音楽監督時代に思い起こすのは、
2011年3月18日、上野の文化会館での定期演奏会だ。
取り上げた曲は委嘱作を含む3曲で東混にとっては全て初演だった。
作曲家の顔ぶれは、野平一郎さん、篠田昌伸さん、西村朗さん
いずれも手強い曲が並んでいた。
11日は金曜日だった。
午後の練習は当然中止となり各自帰途についた。
土日にリハーサルの予定は無かった。
当時インスペクターだった現事務局長の秋島さんに今後のことについて電話で相談した。
月曜日は全員揃ったが、東北出身者の中にはご実家や親戚と連絡の取れない団員が何人かいた。
リハーサルは再開したものの4日後に控えた演奏会に向け一人、また一人と意見が出た。
難曲が並んだリハーサルの時間を削る余裕はない。リハーサルとは別に話し合いの時間を設けることにした。議題の中心は定期開催の賛否について。連日討論を重ね各々の考えや主張を表明し合った。
定期当日は東混として開催の決断は下されていたがメンバーの思いは様々。皆が一致してステージに立てる心理状況には至っていなかったと思う。
GPを開始出来なかった。
ロビーに集まり幾人かの主張を聞いた後、矢面に立つ田中さんの側で舞台に立つか否かは個人の判断に任せることを了承していただき、みんなにはとにかくステージへ戻るよう促した。
この数日間の話し合いで開催を危惧する気持ちは痛いほどわかる。
もしかすると演奏不可能な人数になってしまうかもしれない。
唯一人を残しGPが始まった。
本番を迎えた個々の心理状態がどのようなものだったかは今も計り知れない。ただ演奏中みんなの集中力は高まっていた。
聴衆の数は我々と同じかそれ以下だったように見えた。
最後は西村さんの曲。作風もあり、高まる興奮の中演奏を終えた。
客席からは力強い拍手をいただいた。
この貴重な体験を経て私は、一人でも聴衆がいる限り、何があろうと舞台に立とうと腹を括った。
山田和樹(ヤマカズ)音楽監督兼理事長
言葉は悪いが青田買い大成功!
芸大在学中からオーケストラを組織して活躍していたのは耳にしていた。
もちろん音楽監督だった岩城さんの判断を仰ぎ、それならばということで東混との共演が始まった。
ステージに登場するとカマーバンド(ズボン吊りの取付具を隠すために着用する腹巻のようなもの)がハラリと落ちるほど痩せてたっけ。
若手指揮者が東混と一緒に演奏する機会としては児童生徒相手の鑑賞教室が圧倒的に多い。
多くの場合東混のレパートリーを指揮してもらうことになる。
聴いてもらう相手は子供たちだが、指揮するのはコワ〜イおじさん達が相手だ。
私がペーペーの頃にはコワ〜イ団員の ” ここ、こううたってるけど ” の一声で指揮者がハイわかりましたと屈服するシーンを何度見たことか。
ヤマカズさんが来た頃は流石にそんな雰囲気は消えていた。いつも次は何をやってくれるか楽しみに待ち構えてリハーサルをした。こちらからの提案もそれ以上の答えを見つけて返してくれる。うたい手を楽譜から解放して楽しいステージを作り上げてくれた。
師匠(コバケンさん)譲りの丁寧な言葉使いで常に敬意を持って接してくれる。
お若いのに大したものだった。
指揮者に必要な要素とは?と時々話題になるが、私がまず挙げたいのは人として血の通った共感力だ。
極端な話、読譜力や分析力など二の次でいいと思っている。それらは指揮者として備えるべき必須要素で、もちろん他にも必要なことはたくさんある。求めたいのはそういった能力を発揮するため、共同作業に必要な共感を生みだすことではないだろうか。
岩城さんだって直純さんや光さんの能力に比べれば到底足元に及ばない(そもそもこんなこと比較してもしょうがない)が、常に奏者と聴衆の心を掴んで離さなかった。
例えが極端すぎたが、奏者はこの人ならと思えればこそ、例え音楽性の違いがあろうが互いに理解し合い同じ理想に向かって進める。
独りよがりに言葉を並べたて結局何がやりたいかワカンナイ指揮者も見てきた。
ヤマカズさんとの出会いはそういった指揮者像に終止符を打ってくれるものだった。
一緒にたくさん旅して演奏した。
コンダクター・イン・レジデンス(岩城さん命名)に就任して早々、私の指導している横浜室内アンサンブル(YCE)と共演する機会を得た。
共演曲以外にYCEが寺島陸也さんに委嘱し初演した曲「草」(W・ホイットマン詩)を取り上げてもらった。
詩の持つ自由と軽快さを感じさせながらも力強く生き生きとした指揮ぶりだった。
私の心は希望の光で包み込まれた。
翌年は定期演奏会に初登場し、岩城さんとリゲティが亡くなった次の年は二人への追悼の意を込め Lux aeterna をうたい、鷹羽弘晃さんの「ブルレスカ」と上田真樹さんの「夢の意味」が初演(ピアノは新垣隆さん)された。
そしてプログラム最後は三善晃さんの「レクイエム」(「詩篇」「響紋」と並び、反戦三部作と呼ばれる)
新垣隆さんの手によるピアノリダクション版(2台ピアノ:兄弟子の中川俊朗さんと新垣さんの2人)でうたった。
開演前、三善さんが楽屋を訪ねてくれたそうだ。
その時のやりとりがどのようなものだったか直接聞く機会があった。
三善さんはいつものようにただ立っていた。
ヤマカズさんは緊張しきった上、咄嗟に口から出たのが「先生の世界に近づけますかどうか」という言葉だったという。
三善さんから返ってきた言葉は、、、
ここでは敢えて伏せておきたいと思う。
何故ならそれは、ヤマカズさんの心の中に留め置かれるべき尊い言葉だと思うから。
数年後ブザンソン国際指揮者コンクールの栄冠を手にし、記念演奏会が開かれた。
プログラムには三善さんからお祝いの言葉が寄せられた。
あの時の楽屋で三善さんが返した言葉、その答え合わせのような文章だった。
定期デビューからレジデンシャル・コンダクター(名称が変わったのは未だ理解不能) 就任期間中に5枚のCDをリリースしていた。
松原千振さんが正指揮者となり、常任指揮者のポストが空いた。
以前、楽員理事の3人でいつかは常任就任へとお願いをしたことがあった。
その時は話を聞いてもらって終わりだったが、ブザンソン優勝後、田中信昭さんの慧眼により音楽監督のポストに就く決意をしてくれた。
岩城’ismを受け継ぐ音楽監督の誕生だった。
10年前の7月5日、私は旅先で下顎の骨を折るアクシデントに見舞われた。
1ヶ月間の入院を余儀なくされたが何とか「八月のまつり」に出演することは叶った。
ただその3週間後に控えていたクセナキスのオペラ「オレステイア」は稽古に間に合わず出演を断念せざるを得なかった。
入院中、毎日スコアを眺めて過ごしていたが、一人ではどうにもならなかった。
膨大な量のギリシャ語を覚え、公演を成し遂げたメンバーには尊敬の念しかなかった。
あの怪我 (今も右顎の関節は失われたままで、下唇には軽い麻痺が残っている) によってみんなと同じステージに立てなかったのは痛恨の極みだ。
今でもそう思うほど素晴らしい舞台を繰り広げていた。
その時ヤマカズさんのアシスタントを担っていたのが沖澤のどかさんだった。
東混の希望の星(常任になって欲しいとお願いした時の口説き文句)はより一層輝きを増していった。
海外で得た経験を余すことなく私たちに注いでくれた。
「TOKYO」の一声でオリンピック2020開催が決まった。
リオ・オリンピック開幕前にヤマカズさんを実行委員長にアンセム・プロジェクトが始動する。
手始めに駐日ブラジル大使館でキックオフ・イベントとして在日ブラジル人の子供たちの前で彼らの国歌を披露することになった。
涙を流し一緒に歌う子がいた。
これからプロジェクトを進める勇気をもらった。
最初は我々の手で楽譜を取り寄せ、外語大の先生に発音を教わりに行った。
ヤマカズさんは音楽のコンセプトリーダーに信長貴富さんを指名し、キングレコードから7つのメドレー、206曲の国歌とメイキングDVDで構成されるBox setが発売されることになった。
100種に及ぶ言語、これまで経験したことの無い発音テクニック、様々な困難を克服し2年を費やし全て録音し終えた。
録音最終日の夜、ヤマカズさん主催(ポケットマネー)によりスタジオ近くの椿山荘でパーティーを開いてくれた。
関係者が集い録音を終えたばかりで興奮冷めやらぬ中、お互いの健闘を讃えあった。
編曲に携わった若手作曲家達(特に首藤健太郎さん、森田花央里さん)とはそれ以降も関係を深めていった。
プロジェクトを通して未来への橋渡し役となってくれたヤマカズさん。
コロナ渦にあっても自ら “自宅待機のプロ” というほど何度も帰国して音楽を届けてくれたヤマカズさん。
理事会の一員としても長いおつき合いになった。
今振り返れば、岩城さんがヤマシゲさんをコワがっていたように私も細々と進言していたと思う。
それでも懐深く受け止めてくれたヤマカズさん。
ヤマカズさんと出会ってからの東混は明るく何に対しても (むちゃぶり爆弾を含め) ポジティブに取り組む団体に変わってきたと思う。
これまで共に歩んできた20年余りの結実として新たな価値を生み出し、さらには世界中に共感が芽生えることを切に祈っています。
To Maestro Kazuki Yamada,
I send my Greatest Appreciation
with Love and Respect.
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