祈りと春と

日常

アルト

尾崎かをり

2011年3月11日、午後2時46分。

忘れもしないあの瞬間の出来事。

ここまでお読み頂いたら「ああ、あの事だな」とお分かりになるでしょうか。

今回はいつものブログの様な、楽しく明るい内容から逸れる形になりますが、宮城県出身者として、震災を風化させないため、お伝えしたいと思います。

この当時、まだ生まれていなかった皆さんにも、ぜひお心に留めて頂ければ嬉しいです。

一口に『東日本大震災から10年』と言っても、様々でしょう。
大切なご家族を亡くされ、残されたご遺族の方々、これまでの間、どれだけ頑張って来られたことか。

被災された方々の、復興するための血の滲む様な努力、そして福島の原発事故による被害で、原発の事故処理に当たっておられる方々、未だに先の見えない日常を送られている方々が、本当に多くおられること。

そして被災したのは東北だけでなく、他県に及ぶことも決して忘れてはなりません。


あの日、東混は田中信昭先生との定期演奏会の練習のために、新宿区の練習場にいました。
初めにガタンッ、ミシッ、と建物の音がしたと思ったら段々揺れが酷くなり、事務所の方に建物の外に出る様に言われました。

外に出て驚いたのは、新宿の高層ビル群が、しなる竹の様に左右に揺れていた事。
これは尋常ではない事が起きている、と察しました。

私達の練習は中止になり、事務所でテレビを付けて下さったので見てみると、小さい頃に良く父と釣りに行った場所が映っていました。

「東北ですって。津波の高さが10mって出てますよ。」

…まさかそんな…

10mって、どうなのか?
被害が出るとしたら、どの位なのか…。

家族は?
親戚は?

一瞬にして、私の脳裏に故郷の皆の顔が浮かびました。

幸い、頭の中に浮かんだ人達は、皆無事でした。

しかし、昔良く我が家に遊びに来ていた、妹達の同級生が帰らぬ人に。

私の父母も知り合いを多く亡くし、暫くは何もする気にならなかった、と。

一週間位して、やっと妹とメールが繋がり、皆の無事を確認。
そちらに行こうか?と言う私の問いに妹は、
「仙台までは何とか陸路で来れるかも知れないけど、家までは歩けないよ。
瓦礫もいっぱいだし、タンクローリーやら船のコンテナやらが道路を塞いでるし、電気も無くて真っ暗。
女性が一人で来るなんて危なすぎる。こっちは皆近くに住んでるし、力を合わせてるから心配しないで!」

その言葉に、少し安心。

その後は、様々なメディアで皆さんがご覧になった通りです。

数ヶ月の混乱を経て、復興に向けての取り組みが始まった訳ですが、何て逞しくて我慢強い、東北の人達。

この10年で、良くぞここまで復興出来たと思います。
勿論、これで全てが終わった訳では無いけど。
本当の春には、まだ程遠い。

そして、今はコロナと言う新たな災厄…。
今年こそは故郷の海に行き、手を合わせたかった…。

先日終えた、第255回定期演奏会にて『Melody  in Mozart 』を書いて下さった上田真樹さんが、数年前に『故郷』を混声合唱に編曲して下さった時に、『山は青き 水は清き』の次に『ふるさと』とつながる筈が、繋がって無いのは、『ふるさとに帰りたくても帰れない、と言うこと』と教えて下さいました。

帰れる『ふるさと』があるということの、何とありがたいことか。

その前の第254回定期で歌った、『生きる』。

私は、実は『生きているということ』は、決して当たり前ではない “奇跡の連続” である、と個人的にですが、あの日から考えています。

『生きている』のではなく『生かされている』、何かの役割を自分は担っているのだ、と。
それが何かは、まだ分からないけど。

3月11日も、先日演奏したジョン・ラターや、フォーレのレクイエムが、きっと頭の片隅から浮かんで来て、祈りに満ちた時間を過ごす事でしょう。

犠牲になられた多くの御霊の昇華を、心から願って止みません。

皆さんも、どうか忘れないで下さい。

長々お読み頂き、ありがとうございました。

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