2024年9月12日
東京混声合唱団の桂冠指揮者であった田中信昭が永眠いたしました。
亡くなる少し前に、東混オールスターで元気な姿を見せてくれたばかりの出来事でした。
1956年に弊団を立ち上げ、約70年にわたって日本の合唱音楽を支え続けてきた田中先生。
一周忌、そして氏の追悼公演となる今年のオールスター公演を直前にして、
団員たちが田中信昭氏との思い出を振り返ります。
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とにかく「元気」だった田中先生
先輩たちに「じいちゃん」と呼んで慕われていた田中信昭先生。
その呼び方いいな、今は畏れ多いけどいつかわたしも呼んでみたいなと思っていましたが、ついに叶わぬまま先生は逝ってしまわれました。1時間かかって1ページも進まないリハーサル!
1ミリの隙だって見逃されない、集中力との闘いのようなあの時間!
先生が追求するのは常にシンプルなこと、だけどそれが一番難しい。昨秋のヨーロッパツアーでは、本番の度に先生の言葉が脳裏に浮かびました。
「合唱は合わせて唱うのではない、唱い合うもの」。いつまでも心に留めて。
ソプラノ 松尾明日香
田中先生との合唱では、一貫して、自分の尊厳を大事にしなさいと言って頂いていたように思います。生きている音を出しなさい、とも。
日本語の紡ぎ方も、合唱団の一員としての佇まいも、田中先生と、演奏される作品から学び育てて頂きました。
舞台上で、最後の音の余韻の中、胸の前でゆっくり力強く我々に『グッジョブ』して下さるところ、大好きでした。三善晃「蜜蜂と鯨たちに捧げる譚詩」を全国各地の合唱団と共演したときのこと。
この曲は二群の合唱曲で、片方を東混、もう片方を地元の合唱団の方が歌います。
ある日の練習時、田中先生が合唱団メンバーの男子高校生さんに「はいあなた、“留学”して!」と仰り、彼がこちら東混群の中へ。
ワンフレーズを歌い終え、ぱあっと明るくなって足取り軽く“帰国”する彼。
みんな幸せ。
そこからプチ留学が流行って、楽しく生きた交流ができました。
こういうのが合唱だなあと感嘆しました。「小さな空」の口笛を私が吹く様になったのは、
田中先生での練習時に、だれか吹ける人?となって何気なく吹いてみた文京シビックのリハーサル室がきっかけでした。
特技などとは思ったことがなく、むしろ子供の頃は怒られていただけの口笛も、人の役に立つことができるのかと認めて貰えて嬉しい気持ちでした。
そののちに「口笛の子!」と指名して頂けるようになり、一柳慧「水炎伝説」ではアカトキ乙女役を務め、
2012年には新しいうたを創る会で間宮芳生「焼かれた魚」の独唱を歌わせて頂きました。
私をソリストとして育ててくれたのも、田中先生と演奏される作品たちでした。ソプラノ 和田友子

初めてお会いしたのは10年ほど前。
すでに齢80を越えられていた先生は「轟然と」オペラ合唱の指導に当たられておりました。
一緒に電車に乗る機会があり、空いた席をお譲りしようとしたら「私は電車では座った事がない」とおっしゃっていて、驚いた記憶があります。三年間、東混のメンバーとしてご指導を賜れました事、魂に刻まれた音楽を共に「遊ぶ」機会を頂けました事、心より感謝申し上げます。先生の蒔かれた文化の種を、芽吹かせ育てる尊い仕事を繋げてゆければと思います。
テノール 小沼俊太郎
2011年3月11日。東日本大震災の日は大久保の練習場にいました。
田中先生との練習中でした。
アラームが鳴って外に出る事になったので、私はストーブを消してから最後に近い順番で外に出ました。
外に出ると、今まで体験した事もないくらい地面がずれていくような感覚があり恐怖を感じました。揺れがひどく、何人かでまとまって手などを繋ぎながら立っている人たちもいましたが、
ふと見ると田中先生はひとりで立っていました。
私は先生を助ける気持ちで近くに寄り、「先生!」と呼んで手を繋ぎましたが、
先生があまりにもしっかり立っていらっしゃったので、私の方が助けられるような形になってしまいました。
先生って本当に丈夫なんだなと実感した体験でした。ソプラノ 奥山陽子

自分は’19年入団で、田中先生とご一緒できたのはたったの5回でした。
90代とは到底思えないような情熱があり、練習では最初の数小節を何回も何十回も繰り返して、理想の音を求める姿に度肝を抜かれました。
本番の日は格段に生き生きシャキシャキと動いていて、この人は本当に化け物みたいな胆力だなと感じたことを覚えています。
願わくばもっと長くご一緒したかったです。
天国でゆっくりお過ごしください。テノール 平野太一朗

昔の思い出やくらしの話
先の戦争を経験された先生は、戦中戦後のお話をよくされていました。
例えば「学生時代は鉄砲の弾を作っていたんだよ」とか「工場が爆撃されて仲間達がたくさん犠牲になったんだ」とか。その流れだったと思うのですが、
「私ね、若い頃はタバコ吸ってたんだよ」とおっしゃられて、先生とタバコって1番縁遠い物だと思っていた私はとても驚いたんです。
「物がなかった時代だからね、楽しみと言えばタバコくらいしかなかったのさ」と。そこで「では先生はどうやってタバコをやめられたんですか?」とお聞きしたところ、「あのね、目の前に鏡を置いて自分の顔を見ながらタバコを吸うんだよ」
「そうやって吸ってはやめ吸ってはやめ、タバコを吸っている自分の姿や目の前の灰皿に吸い殻がどんどんたまっていくのを見ていると、だんだん嫌気がさしてきてね、タバコを吸う気が起きなくなるんだよ」とおっしゃっていたのを覚えています。バス 佐々木武彦

入団してすぐの頃、田中先生とランチに行きました。
同期生は女子ばかり5人で、その中にいた田中先生ファンが先生と一緒にご飯に行きたい!とお誘いしたのです。連れて行ってくださったお店は、当時の信濃町の練習場にほど近いおばさんが1人でやっているカウンターしか無いお魚のお店。
本日の焼魚定食を選ぶと金網に挟んだ魚をコンロ上へ。
50cmも炎を上げて、外はカリッと中はふっくらとした絶妙な焼魚に。
お魚と3品のお惣菜が乗った大皿と味噌汁とご飯という満点のお食事でした。
魚嫌いだった私が初めてお魚って美味しいと思ったお店で、先生の行き付けだったそうです。お食事をしながらのお話は、水の入ったかめに素焼の器を入れて水を濾過するお話や、ポタポタと40分もかけて入れる水出しコーヒーのお話など、初めて聞くことばかり。
へ~、ふ~んとみんなで興味深く聞いて、あっという間のランチタイムでした。
お店はその後のバブルに向けて周辺一帯と共に地上げされ無くなってしまいましたが、美味しいお魚というワードを聞くと田中先生と共に思い出します。今から40年前のこと。田中先生は当時56歳!
心より御冥福をお祈り申し上げます。
1987年の東混アメリカツアーの時のこと。
アメリカの8つの州で8公演を行いました。
司会は田中先生。マイク無しで指揮台からお客様に向かって英語で一語一語はっきりと話されたので、アメリカ人の方、日本人の方、そして私たち団員にも内容がよく伝わりました。プログラムには、当時の東混レパートリーが並んでいました。
「追分節考」では、客席を山に見立ててあちらの山こちらの山を馬子さんたち(男声)が馬子唄を歌いながら歩きますと説明した後、「Today… without horse!」
いつ歌うかは私が団扇(fan)を立てて指示しますと説明し、
最後に「This is ‘fan’ …tastic music!」と言って狙い通りにお客様に笑っていただき、
ご満悦でした。

オールスターズにむけて
田中信昭をはじめ、東混指揮者陣が一堂に会す場所として始まった「東混オールスターズ」。
’24年8月末の公演が、氏にとって最後の演奏場所となりました。

突然の訃報からもうすぐ1年が経ちますが、団員の会話では折に触れて氏の名前が上がります。
東混を作って約70年、プロアマ問わず全国の合唱を牽引してきたその功績は到底語り尽くせません。
氏が音楽に向き合ってきた姿勢を思い出し、
日々それぞれが自分を見つめ直す気持ちで、レパートリーに取り組んでいます。


今年も、もうすぐ東混オールスターの季節となりました。
今年は9月7日に杉並公会堂で開催いたします。
田中信昭を偲ぶ特別なコンサートとして、
多くの曲が氏にまつわる思い出を反映したものとなっています。
田中信昭氏の足跡をたどり、東混の今を見つめる演奏会。
先生の耳にも届くことを祈って、演奏したいと思います。
2025年8月 ブログ係
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